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暮らしの教室 大竹雅一さん講演レポ

「薪と畑とマウンテンバイク」

 
 
1020日(土)mokichi wurst café地下にて暮らしの教室が開かれました。

大竹さん自身の謎めいた存在が、始まる前から会場の雰囲気をざわつかせていました。みなさま「いったい結局何をやってるひとなの?」というところは同じ疑問点のようで、本日はそこを掘り下げていきたい、ということで始まりました!
 
 
まず大竹さんはどのようにしてマウンテンバイクのレジェンドになったのか。大竹さんは幼いころの写真を見せ、ここから物語がはじまったのだと語られました。

カブトムシを捕りたくて捕りたくてどんどん遠くにいきたくて自転車をはじめた幼少期。はまり込むのはいつのまにか自転車のほうにかわっていったと言います。はじめは仲間とともにサイクリングに出かけるも、休むとハイな気持ちが保てない大竹さんは、いつのまにかひとりになっていました。ハイペース、ハイスピードの大竹さんに周りはついていけず、脱落していったのです。

単独で走り抜く大竹さんの前に開いた世界は必然的に自転車レースの世界でした。実業団に入っていきなり7位を獲得するも、それまで只々楽しかった自転車の世界が、勝たなければいけないというプレッシャーにかわり、さらに過酷な練習によって大竹さんの身体が悲鳴をあげます。休んでは練習し、また故障しては休む、の繰り返し。その頃のことを振り返り、大竹さんは「強烈にいやだった」と語ります。
 
実業団時代。一番右が大竹さん。
 
何か結果を出さなければいけない。それもすぐに。そのプレッシャーは大竹さんの資本主義に対する疑問を抱かせました。この疑問は、後々そうではない生き方をしていくこととなった火種のように感じました。

レースを引退した大竹さんはアメリカへ赴きそこで本場のマウンテンバイクのプロレースの部品をサポートするポジションに就き、新しい境地が開けます。ご自身もレースに参加し、まだマウンテンバイク自体が浸透していなかった日本の全日本選手権で入賞されます。この辺りが大竹さんがマウンテンバイク界のレジェンドと言われる所以なのでしょうが、大竹さん自身は、
「アメリカのコロラボにある山の麓の自転車店が、ヒッピーみたいで、レースが終わったらわいわいやって、自分はそういう人間だったんだと感じた。」と懐かしそうに語られていました。この辺りが「マウンテンバイクショップ・オオタケ」の原点なのでしょう。

さて、そんな「エクストリーム系+ヒッピー」たる御自分を見出した大竹さん。なんと思いついて半年で実業団を辞め、秦野に現在のショップを開業してしまうのです。

「山があってふもとがある。東京からもそれほど遠くない。」という大竹さんのマウンテンバイクライフに合った場所をみつけて、ご自身が楽しむためにも山を綺麗にして保存していく、里山ボランティアも始められます。現在もこの活動はされているそうです。秦野の里山でぐんぐんマウンテンバイクライフを満喫していく大竹さん。そんな中、時間も経ち古くなった店舗をセルフリノベーションすることにし、店を1年半ほど閉めることを決意します。
 
ふつうお金を稼いでリノベーションは業者に頼むところを、大竹さんは全く考えられないほどのパワーを発揮して、どんどんお店を直していきます。直せば直すほど範囲が広がり、手抜き工事も発覚。耐震も傾きも直し、梁を出したり床を張ったり、窓も取り付けます。
 
「とにかく思いついたらやってみていた。」やってみたかった、やってみたらできた。を繰り返していたら、「何でも自分でやってみよう。やってるうちに何でもできる。と思っちゃう。」子供のように語る大竹さんは、眼がきらきらしています。この感覚が、大竹さんにとって、自転車をバラバラに解体して分からなくなったけどなんとかできた。という幼少時のわくわく感、ドキドキ感を思い起こさせます。そりゃできないだろうということを、誰かにきいてやってみたらできた。その繰り返し。でもそれが大竹さんの人生の道の軌跡を確かに築いてきたのです。

「店舗をリノベーションしているうちに、建築の分業が分かってきた。」様々な場所に見える、「コストダウン、高率化」の仕事は、手抜きにも現れているように、人間味を失っているように感じ、逆に自分ですべてやることによって、有機的なもの、人間的なものを獲得していく。そんな中、すべて手作業だった昔の人の智慧、じっくり構えた時間軸、そんなものを想像する。豊かな時間を送る中、あの大震災(9・11)が訪れます。

「かなりのインパクトがあった。いままであたりまえに来ていた電気が来ない。フツウだと思っていたことがフツウじゃない。」

幸い店舗は無事でしたが、停電によって作業が中断します。エネルギーの脆さを感じたという大竹さん。しかし自分でやっていたからこそ、ダイレクトにそのことを感じ、出来る限り、自分の力で生活しようと考えたと言います。「あの震災で何も感じなかったひとは鈍感。」と、皮肉をたっぷり込めて?大竹さんは朗らかに笑っていらっしゃいました。

大竹さんにとって家やマウンテンバイクは手を入れながら一緒に成長していくもの。自分とともに齢をとっていく。だから大事だし、終わらない。

もともと薪ストーブを入れる予定でリノベーションをしていた大竹さん。ある程度お店が落ち着いたところで薪ライフの始まりです。

薪は、良い薪として完成するまでに時間がかかります。木の種類からはじまって、水をどう抜くか、小口をぴちっと揃えて切ること、このきちんと揃えて切るのが難しく、美しい切り口を写真でみせて頂きました。この理想形に持っていくことが大竹さんのアートなのです。
良い薪。小口が美しい。
 
自転車屋さんなのに薪屋さんのようになったお店の前。

ストーブのシステムなどをお話しいただき、ますます眼を輝かせる大竹さんですが、なぜここまで薪づくりに惹かれてしまったのでしょうか。
 

「薪には実体がある。」と大竹さんは言います。石油燃料と出どころは同じだけれども、薪の仕事としての伐採、運ぶ、割る、などの苦労全てが、燃やす時に思い出され、リアリティーのあるエネルギーとして実体を持つのだと言います。現代は実体が無い。特にエネルギーが。そう語る大竹さんの眼差しは、いつでもあの資本主義の「かんたん、便利、安い」とういうそれを追求する、実感の無い、つまらない世界と対極に在りつつ立ち還っていきます。

レモングラスもそうですが、「ふりかえると自分の人生は好きなことばかりやってきた。ふらふらしながらひとつのところに来ちゃったな。」

やりたいことを秘めながら、誰かしら見ていて、助言をくれる。そういう現代社会の結果や到達点重視の“トリップ”ではなく、かけがえのない、時間をかけて辿り着いた目的地までの全て、そのプロセスが“ジャーニー”であり、それが人生だと、これからも終わりがなく続いていくのだと締めくくられていました。

あの日友達も追いつけずに駆け抜けた少年は、まだまだ少年のまま、自転車に乗って、ガタガタ道やくねくね道を走り、結局ひとが到達しえない場所へととどまることなく進んで行きます。

さて、最後に幸せのモノサシを大竹さんに伺います。
  1. ターニングポイントはいつでしたか?
  2. 現在の幸せのモノサシは何ですか?
  3. 将来どんな社会になってほしいですか?
 
まず1、マウンテンバイクに出会ったことだそうです。大竹さんの「エクストリーム+ヒッピー」精神にマッチしたのですね。確かにここで方向性のようなものが出来たようです。

 

2は、冬がずっとあったらいいな。だそう。もう薪ストーブ好きすぎて、現在秋でまだ暖かい陽気の日もありますが、窓開けてストーブ炊いちゃってるそうです。
 
 

 


3は…現在のテクノロジーを使って、商品などにひとつひとつ、物語(創られるまでのストーリー、歴史、人間性を持った情報)のタグが付いて、スマホをかざすとその情報が取り出せるみたいになって、同じような商品でもそれが見分けられるようになったらいいな、とおっしゃってました。昔の人々のどっしり構えた英知に憧れながらも(実践しつつも)現代のテクノロジーを否定されているわけではないところが、日本でのマウンテンバイク先駆者の大竹さんらしいです。
 
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村石(え)